我之前问奶奶她的经历,她跟我说年龄大了很多事情都记不清了。最后在笔记本上用日语给我写了一些,她写完之后没过多久被检查出了肺癌晚期。开始了与癌症的斗争,最后她输了。
私鹿児島で大正12年八月十一日生まれ、鹿児島の指宿市山川成川大成学校の高等学校を卒業18才で中国の旧満州国の撫順で合作社のタイピスとして働いて居ました。その後友達と茶店を開いて生活していました時中国の国民党の軍人が撫順に来て私の茶店を飲みに来て知り合いになりました、私と友人は日本の人達とはなれて生活して居ました。
我大正12年8月11日出生在日本鹿儿岛,在鹿儿岛指宿市山川成川大成学校高中毕业,之后18岁去到了旧满洲国抚顺作为打字员日本合作社工作,之后跟朋友在抚顺开了一家茶馆,那时候有一个中国国民党军人来到抚顺,经常来我店里喝茶就这样我们认识了。这个时候我一直都跟日本朋友过着和日本一样的生活。
日本人の引き上げを知らずに二人でなって居ました。其時中国の軍人が私に結婚の話を持ち出して私も急急考えた日本に帰らなくて中国に残る決心で中国の軍人と結婚しました。
我不知道日本正在撤侨我们两确定了关系,就在这个时候这个中国军人跟我提出了结婚,我考虑了之后决定不回日本留在中国和这个中国军人结婚了。
主人も私と結婚した後私が日本人で有る事を共産党の耳に入り、主人も軍人を止めて主人は雲南生で雲南に帰る事にしました。其の時2人の子供の親になり主人も軍人を止めたら仕事も無く東北で豆腐を売買して居ましたが
我的丈夫也因为和我结婚,共产党知道我是日本人所以丈夫也离开军队,因为他是云南生人所以我们决定一起回云南。那个时候我已经是两个孩子的母亲,丈夫也离开了军队没有收入所以我们两人开始在东北卖豆腐。
家族4人の生活も困難で雲南に帰る事になりましたけれども旅費もなくお金になる物は皆売りはらって一月に東北を立ち雲南に四月にたどりつきました。雲南に帰りましたけど私は日本人をかくし食べ物、言葉も日本とはちがい主人の家は田舎で農業をしていました。
在东北实在维持不住一家4口的生活所以我们决定一起回云南,但是没有路费,所以把身边所有能卖的东西都卖了,1月份从东北出发4月份终于到了云南。但是我到了云南之后,他们吃的东西我吃不习惯,他们说的话我也听不懂,而且丈夫的家是云南偏远山区的农民。
私は小さい時から農業もした事もなく家の事もできないし畑仕事出来ない話も出来ない、畑仕事もまちがえては皆にきらわれて涙の毎日、食べ物も着るものも自分で作る私は自分ではくつも作れないので畑仕事も(ハダシ)で一年二年と子供が大きくなり助かりになりました。家では食事を作るのもストーブで石岩をもやして作ります。石炭は買って自分で遠い所からざるで運びます。毎年石炭の仕事で私のねこ背も石炭をせおってねこ背になりました。一年二年、年が過ぎましたら畑仕事もできる、食べ物でも自分でで来る様になり子供が皆大きくなり私も大部くらしよくなりました。友達も多くなり50年も中国の生活になり、帰国する時も心残りがしました、中国は私の第2の故郷と思って居ます。
我从小就没有干过农活,家务活也不会做,但是我也不能说自己不会。因为在田地里干活出错而被周围人嫌弃,每天以泪洗面。吃的穿的全部都要自己做,我因为连鞋子都不会做所以只能光着脚去干农活。就这样一年两年孩子逐渐长大也开始可以帮我干活了。在家里做饭用的是炉子烧煤炭。煤炭要在很远的地方才能买到然后再背回来。每年都要去很远的地方背煤炭所以我的背也驼了。一年两年,随着时间的推移农活我也慢慢的会做了,吃的也会自己做了孩子也逐渐长大我也轻松了不少。朋友也逐渐变多也习惯了在中国的生活,回国的时候我心里还有很多的不舍。在我的心里中国是我的第二故乡。
帰国しても日本の皆様が笑顔で私を迎えと来れますので私も生きて居て良かったと心より感謝しています。今は家族も皆日本に呼び日本の政府や親戚の人達にお世話になって有難いと思って居ます。私も今年87才になりました、年をとるつけ色々な病気の友達が出来て薬のお世話になって居ます。
回日本的时候大家都对我笑脸相迎,我从内心深处表示感谢,我能活到现在真好。现在我把家人都叫到了日本,得到了日本政府和日本亲戚的关照,真的非常感谢他们。我已经87岁了,随着年龄的增加逐渐和各种各样的病成了朋友,随时都要药品的关照。
私の人生は中国の土となるかと思ってあきらめていましたがこうして帰国出来て日本の皆様に親切なお世話をいただいて有難うと思って居ます。
我一直以为我会化为中国的黄土,也放弃了回国的想法,现在能回到日本大家对我都非常的关照,我从内心深处对大家表示感谢。
私の人生はもう長くは無いと思って居ますが何時あの世で呼びに来ても心残りはないです。
我想我的时间已经不长了,什么时候被叫到另外那个世界我也没有遗憾了。
日本政府や中国の政府の皆様ありがとうございます。
多谢日本政府和中国政府的各位
手足のシビレで字がきたないので読みにくいと思います。
因为手脚现在变得麻木字写的不好看,可能有些难看懂。
奶奶写完没多久就去世了享年88岁,原来人在极度伤心的时候真的不会像电视里那样大哭,甚至不会留眼泪,没有表情,但是如果放一滴眼泪从眼角滑下那就好像是大坝决堤只能等它流干。
一个日本的富家小姐为了一个中国军人去到了云南的深山中生活了五十多年,这里没有自来水没有电,所有的一切都靠自给自足,吃的穿的一切都要自己动手,这些都是她从小到大闻所未闻的。他所受的苦难常人无法想象。我希望能够有更多人知道这个可怜的日本女人。